〝徒然草〟はここで書かれた種生国見山
〝徒然草〟はここで書かれた種生国見山
昭和55年11月号
種生(たなお)の国見山は『徒然草・つれづれぐさ』の作者として有名な兼好法師が、その晩年を過ごした地として広く知られている。兼好は南北朝の頃(約600年前)京都吉田神社の神職の家に生まれ、若い時は皇居警備の武士であったが、恋人に死に別れたため世をはかなんで出家し、隠遁(いんとん・世俗をのがれてかくれ住むこと)生活を送ったといわれている。
当事、種生は田井の庄と呼ばれ国見山の麓には、立派な堂塔を備えた草蒿寺という寺があった。ここの居を定めた兼好はその一室で「日ぐらし硯にむかいて」何かを書きつづっていた。それが後年誰かの手でまとめられ、徒然草ができたのではないかと思われる。もちろん、これは推測で兼好種生隠遁説そのものが、伝説的な話だとされている。そのわけは、国見山一帯が天正伊賀乱の決戦場となり、証拠となる寺や古文書などが全部焼かれてしまったからである。ここには、織田軍主力の猛攻撃をうけた郷土の兵士たちが、青山の各地から追いつめられ最後の抵抗をした砦があり、兼好ゆかりの山野は、赤い血と炎に染められた悲しい歴史をも秘めている。
江戸時代になり、松尾芭蕉やその弟子服部土芳がこの地を訪れたときには、あたり一面草むらで兼好の遺跡らしきものは何もなかったという。土芳はその情景を「月添いて悲しさこほる萩すすき」という一句にしてここを去った。
現地はいま小公園となり、兼好塚や明治38年に建てられた遺跡碑などがあるが、今年の7月、種生老人クラブの手によって『兼好法師終焉の地』と刻んだ記念碑も建てられ、種生地区あげて兼好法師遺跡の保存につとめている。
兼好塚のある丘に立つ土芳の句碑
昭和55年目次
1.2000年のロマンを秘めた柏尾銅鐸 昭和55年7月号
2.霊験あらたかな奥山大権現参道の丁石 昭和55年8月号
3.地震除けの神さま要(かなめ)石 昭和55年9月号
4.日本三体といわれる老川如来 昭和55年10月号
5.〝徒然草〟はここで書かれた種生国見山 昭和55年11月号
6.むかし開拓いまゴルフ メナード青山カントリー 昭和55年12月号
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