絶版になった旧青山町の「あおやま風土記」を紹介します

むかし開拓いまゴルフ メナード青山カントリー

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むかし開拓いまゴルフ メナード青山カントリー

昭和55年12月号

 澄んだ空気とみどりの大地は、わが青山町のシンボルであり、誇りとしているものだが、霧生字石谷広のメナード青山カントリークラブでは、自然と人間の楽しいふれ合いが見られる。伊賀富士と称される尼ケ岳(958m)を背景に、ゴルフやテニスの白球を追う人々の表情は、みんな快適で青山のよさを満喫している。

 この地はかって布引開拓団の入植地で、現在のゴルフコースは牛豚を放牧するところであった。戦後の食糧難時代、青山高原からこのあたりに至る山間数ケ所が農用地として開拓されていった。一鍬、ひと鍬人力で掘り起し、電灯も車もない開拓団の生活は苦闘の連続だったという。

 ここ、布引開拓には延べ120戸が入植(定着25戸)したものの、伊勢湾台風で全戸倒壊という大被害を受けてからは下山するものが多くなった。残った人達はポンプアップによる水田造成をこころみ、三重県における最高冷地稲作として注目されていたが、昭和47年に全地メナードに売渡し、その歴史を閉じたのである。
                            尼ヶ岳のふもとのメナード青山カントリークラブ

尼ヶ岳のふもとのメナード青山カントリークラブ

 ここはまた、開拓の当初から縄文や弥生の遺物が散出したところで、メナードがゴルフ場として整地する前に青山町教育委員会が発掘調査をした結果、石鍬や石匙、土器片などが多数出土し、縄文遺跡であることが確認された。

 1万年もの昔、半裸の縄文時代人たちが、棒の先に石の槍をくくりつけた武器を手に、イノシシやシカを追い廻していた草原地と、派手な服装のゴルファーたちが、クラブを手に一喜一憂するカントリークラブを連想すると何か不思議な共通点が感じられる。




昭和55年目次
1.2000年のロマンを秘めた柏尾銅鐸 昭和55年7月号
2.霊験あらたかな奥山大権現参道の丁石 昭和55年8月号    
3.地震除けの神さま要(かなめ)石 昭和55年9月号
4.日本三体といわれる老川如来 昭和55年10月号
5.〝徒然草〟はここで書かれた種生国見山 昭和55年11月号
6.むかし開拓いまゴルフ メナード青山カントリー 昭和55年12月号

目次昭和56年

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