地元ではかんじょうしの霧生城址
地元ではかんじょうしの霧生城址
昭和59年3月
県道29号線霧生橋から100m東に農協倉庫がある。その南の山の山腹から8合目あたりまで孟宗竹の林で、頂上付近は杉と桧の木立が茂り、ここに霧生城址があります。室町時代(1390~1570年)伊勢国司北畠氏の本拠地「霧山城」(美杉村下多気)に近いところから北畠氏に属した福山出雲守(北畠家臣録には伊賀国鎮守霧生城主と記されている)が築いた山城である。霧生盆地一帯を眼下に見おろす要害の地で地元では「かんじょうし」と呼んでいます。
霧生は、多気の村里から京都や大和、大津方面に通じる交通の要衡で、伊賀の南部に勢力を持つ小郷士らのほとんどが、北畠氏と何らかのつながりがあったことなど、古くから重要な地域であることから、福山氏を伊賀の国鎮守の重要職に任じていることがうかがえます。
霧生城は、山の頂上部を切り込んで四方に土塁を巡らし、西から南にかけて掘り切りが見られ、やや小型です。霧生の近郷にはこのような山城の址が5,6ケ所残されています。
世に言う伊賀天正の乱は、天正9年(1581年)9月27日北畠信雄の率いる一万の軍勢が、布引を越え、伊勢路から伊賀へなだれ込んだ。下川原の掛田城のほか数ヶ所の砦は、大軍の前にはひとたまりもなく秋の木の葉のように散らされ、阿保から老川腰山を蹂躙(じゅうりん)しました。その後霧生に侵入し、天照寺を始め目につく民家をすべて焼き払ったので、霧生城主福山氏も一族とともに種生国見山砦に後退しました。城址はその後400年の歳月により荒廃にまかせ、僅かに残る「関城跡」のいわれは今のところ確かめるものはない。ただ、城跡にたたずむと頭上を流れる風の音が、昔日を思い出させるかのようです。
昭和59年目次
41.町内で最も古いといわれる寺脇の宝厳寺(ほうごんじ) 昭和59年1月号
42.巨岩に刻まれた高尾鈴又の不動明王 昭和59年2月号
43.じもとではかんじょうしの霧生城址 昭和59年3月
44.別府の十王石仏 昭和59年4月号
45.葛原氏・滝野氏の祖先 昭和59年5月号
46.古代のルートをしめす老川如来への道分地蔵 昭和59年6月号
47.とんがり嶽の地蔵さま 昭和59年7月号
48.大昔の古戦場 伊賀の青墓 昭和59年8月号
49.敬叟(けいそう)禅師産塚をたずねて 昭和59年9月号
50.火伏、鎮火の神 秋葉さんと愛宕さん 昭和59年10月号
51.腰山の阿弥陀さん 昭和59年11月号
52.神風の昔がしのばれる柏尾の懸仏(かけぼとけ) 昭和59年12月
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