絶版になった旧青山町の「あおやま風土記」を紹介します

山中半右ヱ門 本陣跡碑

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山中半右ヱ門 本陣跡碑

平成8年2月号

画像の説明

 江戸時代の後期、お伊勢参りの宿場として殷賑(いんしん)を極めた旧初瀬街道伊勢地の宿にあたる伊勢路集落の中程に、本陣山中家があった。今その裏山に、「問屋山中半右ヱ門本陣跡」の碑が建てられている。

 山中家の先祖山中善兵衛安久は泉州山中家の生まれで筒井順慶の家臣であった。順慶の養嗣子(ようしし)だった定次(永禄5年生まれ)が、天正14年(1586年)伊賀国守に封ぜられたとき、伊賀上野に住むことになった。

 定次が領地を没収せられてから、安久は浪人となり、伊勢地村に引籠り百姓となった。時代が流れて藤堂藩となってから、安久は郷士(ごうし)となり一足一筋7人の供の格式を与えられ無足人の上位となった。

 爾来(じらい)徳川270年の歴史の中で、山中家も栄枯盛衰があったが、徳川末期、諸木の庄屋だった東九八郎方から婿養子を迎えた。この山中半右ヱ門が藤堂藩の本宿お茶屋預り問屋役を拝命してから山中家は繁盛した。

 当時、伊勢地の宿には、徳田屋、大和屋、角屋を初め20余軒の旅籠が軒を連ねていた。本居宣長(菅笠日記)の泊まった松本五右ヱ門家は広大な屋敷を構えていた。

 半右ヱ門が長女“この”に婿養子惣十郎を迎えた。惣十郎は、上津村初代村長として村事に尽くし、特に青山街道改修には私財を投げ打って努力した。木枯らしの森の碑は静かに、行き交う国道の車と伊勢路の家並みを見下ろしている。

養嗣子=民法旧規定で、家督相続人となる養子

郷士=江戸時代に農村で農業を行っていた武士のこと。または苗字帯刀を許された農民のこと

爾来=それからのち。それ以来。




平成8年目次
185.笛吹の伝説と千方(ちかた)の四鬼窟(よつおにいわや) 平成8年1月号
186.山中半右ヱ門 本陣跡碑 平成8年2月号
187.最も代表的な古墳 羽根・狐塚古墳群 平成8年3月号
188.ロマンただよう桜峠の春 平成8年4月号
189.奥鹿野の菩提寺 保徳山久昌寺 平成8年5月号
190.霧生の鉱山跡 平成8年6月号
191.小さな磨崖仏(まがいぶつ)阿保の子安地蔵さん 平成8年7月号
192.老川の中世城館 若山氏城 平成8年8月号
193.権現谷の双つ渕(ふたつぶち) 平成8年9月号
194.腰山の峯道(みねみち) 平成8年10月号
195.朱の欄干と金色の擬宝珠 大村橋 平成8年11月号
196.矢生(やお)中学校の上高尾分校 平成8年12月号

目次平成9年

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