絶版になった旧青山町の「あおやま風土記」を紹介します

神風の昔がしのばれる柏尾の懸仏(かけぼとけ)

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神風の昔がしのばれる柏尾の懸仏(かけぼとけ)

昭和59年12月号

 青山町における最も古い、著名な文化財は、対象7年柏尾の山中で発掘された銅鐸(どうたく)=東京国立博物館に所蔵=である。2000年昔の遺物といわれる、この銅鐸から想起するならば、柏尾は町内第一の歴史を有していることになる。

 その柏尾集落は、東北に小さな山が連なり頂上に上れば天正伊賀乱の古戦場として有名な『本田城址』が見られるが、近くに『北の権現』と称される小神社がある。

 明治維新の神仏分離令までは村の南方に『奥の権現』と称される、村の氏神『十七明神社』があったことに対して、ここが北の権現と呼ばれていたらしいが、小社の中に安置されている金属製の懸仏(かけぼとけ)は文永10年(1273)の作で町文化財に指定されている。

画像の説明

 懸仏とは、平安中期の神仏習合信仰からうまれた御生体(みしょうたい・本地仏)をあらわすため、円形の金属板にボン字仏像を鋳出した特殊な像のことで、寺院の柱や壁にかけて礼拝したもの。神社では神鏡に相当するものなので、いま北の権現でまつられているが、もともとは奥の権現にあった般若寺のもので、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ・神は仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現われたとする神仏同体説)によって十七明神社の本地仏としてまつられていたという。明治40年に、明神社が大村神社へと合祀されることになったので、その時から北の権現でまつられている。
  
 直径22.1cm、厚2.1cmの青銅製のこの懸仏は、表面中央最上部に打出し金銅宝塔を取付け、中央に大日如来の種字を記し、周辺左右に十七字のボン字を浮き上がらせた立派な作り、鎌倉の中期、元の大軍が北九州に来襲した当事のものであり『神風』が吹いた元寇(げんこう)の昔がしのばれる文化財である。




昭和59年目次
41.町内で最も古いといわれる寺脇の宝厳寺(ほうごんじ) 昭和59年1月号
42.巨岩に刻まれた高尾鈴又の不動明王 昭和59年2月号
43.じもとではかんじょうしの霧生城址 昭和59年3月
44.別府の十王石仏 昭和59年4月号
45.葛原氏・滝野氏の祖先 昭和59年5月号
46.古代のルートをしめす老川如来への道分地蔵 昭和59年6月号
47.とんがり嶽の地蔵さま 昭和59年7月号
48.大昔の古戦場 伊賀の青墓 昭和59年8月号
49.敬叟(けいそう)禅師産塚をたずねて 昭和59年9月号
50.火伏、鎮火の神 秋葉さんと愛宕さん 昭和59年10月号
51.腰山の阿弥陀さん 昭和59年11月号
52.神風の昔がしのばれる柏尾の懸仏(かけぼとけ) 昭和59年12月

目次昭和60年

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