絶版になった旧青山町の「あおやま風土記」を紹介します

日本三体といわれる老川如来

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日本三体といわれる老川如来

昭和55年10月号

 暑さ寒さも彼岸まで、といわれる秋分の日、今年も老川如来は大勢の参詣者を集めて終日賑わった。バスが開通する以前、如来さんまではもっぱら歩き。昔の子供たちは山坂越しの如来参りを得意とし、弁当と小遣いが持てるこの日が楽しみであった。
 
 その老川如来が日本三体如来といわれるわけは、長野善光寺の如来さんの分身であることによる。今から1300年の昔、信州の本田善光という人が都へ行ったとき、紫雲と光明の中から金色の仏様が現われ、お前の国でまつるようにと告げられた。翌朝その仏は三体に分身し、東大寺と橘寺でもまつれと再び告げられた。善光はお告げの通りの寺に二体を納め、残る一体を御本尊として、自分の家を寺にしたのが善光寺の始まりといわれる。その後、東大寺の一体が、これまたお告げによって老川へ移された。これが極楽寺御本尊の阿弥陀如来で、御丈一寸八分(5.5cm)の黄金づくり。この御本尊は、60年に一度しかお姿を拝めない秘仏となっている。

極楽寺本堂を山門から望む

 伊賀中の神社仏閣が焼き払われた天正の乱でこの寺も受難し、ご本尊は織田軍によって伊勢の地へ持ち去られてしまった。仏をないがしろにしたこの行為に如来さんは大いに怒り「老川へ返さないと命がないぞ」と信長に仏罰を告げた。驚いた信長は、すぐに現地へもどし、寺も再建したそうである。天正の乱によって伊賀は焦土と化し、数多くの郷土先人が犠牲となった。今年の9月は、その戦禍から数えて400年目という。そこで極楽寺では、秋の          極楽寺本堂を山門から望む
彼岸終わりの日9月26日に、盛大な400年遠忌(おんき)法要を営んだ。




昭和55年目次
1.2000年のロマンを秘めた柏尾銅鐸 昭和55年7月号
2.霊験あらたかな奥山大権現参道の丁石 昭和55年8月号    
3.地震除けの神さま要(かなめ)石 昭和55年9月号
4.日本三体といわれる老川如来 昭和55年10月号
5.〝徒然草〟はここで書かれた種生国見山 昭和55年11月号
6.むかし開拓いまゴルフ メナード青山カントリー 昭和55年12月号

目次昭和56年

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