絶版になった旧青山町の「あおやま風土記」を紹介します

古代のルートをしめす老川如来への道分地蔵

文字サイズ:

古代のルートをしめす老川如来への道分地蔵

昭和59年6月号

 新しい青山中学校の通用門に向う坂道の右側に、粗末なブロックの堂の中に、小さな石の地蔵さんが、ひっそりと建っています。

 行きかう中学生も、新しい団地の人も、この地蔵さんには、あまり興味もなさそうです。
 
 暇があったら、一度この地蔵さんをのぞいてみてください。

 柔和な地蔵さんの横上に
「右 愛宕山」「左 にょうらい三十三丁」
 横裏に「施主嶋ケ原村 米屋九郎兵衛」「天明五年建立」
と刻まれています。

 この地蔵さんは、もとは給水タンクの裏の丘に、旧道の分岐点に「道分地蔵」として建てられ、木造のお堂に収っていたのですが、中学校の敷地になったため、現在の所へ移転されてしまったのです。

画像の説明

 この旧道は阿保から老川、矢持方面へ抜ける唯一の街道で、明治時代に新道が出来るまで、重要なルートとして賑わったと伝えられています。

 この「道分地蔵」が青山町の人によって建てられずに、島ヶ原村の米屋九郎兵衛によって建てられたことは、江戸時代に日本三体「老川如来」が広く伊賀の人々の崇敬を受けていたことを物語っています。

 道中安全を祈り「如来へ三十三丁」と道標をかねたこの地蔵さんは200年の星霜に耐えて来たのです。

 この旧道の近くに画期的な幹線道路が老川へと建設されるようですが、この旧街道のルーツを探ってゆけば、万葉の時代に阿保から伊勢へ抜ける官道であったことも考えられます。

 新しい道路が完成したら「左如来道」と刻まれたこの地蔵さんの復活を期待したいものです。




昭和59年目次
41.町内で最も古いといわれる寺脇の宝厳寺(ほうごんじ) 昭和59年1月号
42.巨岩に刻まれた高尾鈴又の不動明王 昭和59年2月号
43.じもとではかんじょうしの霧生城址 昭和59年3月
44.別府の十王石仏 昭和59年4月号
45.葛原氏・滝野氏の祖先 昭和59年5月号
46.古代のルートをしめす老川如来への道分地蔵 昭和59年6月号
47.とんがり嶽の地蔵さま 昭和59年7月号
48.大昔の古戦場 伊賀の青墓 昭和59年8月号
49.敬叟(けいそう)禅師産塚をたずねて 昭和59年9月号
50.火伏、鎮火の神 秋葉さんと愛宕さん 昭和59年10月号
51.腰山の阿弥陀さん 昭和59年11月号
52.神風の昔がしのばれる柏尾の懸仏(かけぼとけ) 昭和59年12月

目次昭和60年

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional