絶版になった旧青山町の「あおやま風土記」を紹介します

大昔の古戦場 伊賀の青墓

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大昔の古戦場 伊賀の青墓

昭和59年8月号

 今を去ること1500年も大昔、阿保の地で日本歴史に残るような古代争乱があった。

 第21代雄略天皇の官軍と伊勢の朝日郎(アサヒノイラツコ)の戦いである。

 その場所は『伊賀の青墓』というところで、今の阿保西部、息速別命(イコハヤワケノミコト)の墓のある附近だったと思われる。
伊賀とは伊賀郡(古代の行政区分で青山町・神戸・依那古あたり)のこと。青墓(あおはか)とは阿保の墓という意味で、青山町史には『日本書記』の雄略紀に、青墓の地名が出ている。多くの郷土史家は、この青墓の地を阿保とし、これをもって、阿保という地名の文献上の所見としている・・・・・・と説明されている。

 雄略紀とは、第21代雄略天皇の一代記で、西暦457年から479年までの23年間の在位期間中の出来事を記録したものである。

 その18年目の秋8月の事件として物部莵代宿禰(モノノベノウシロノスクネ)、物部日連(モノノベノムラジ)を遣して、伊勢の朝日郎を伐たしめたまう、という記事がある。

画像の説明

 その戦いは2昼夜におよんだが、朝日郎という反乱軍の大将は弓の名手で、二重の甲(よろい)を突き通す強弓を使って、進んでくる官軍の兵士を次から次へと射殺したので官軍は大苦戦したという。この時官軍の中から筑紫物部(ツクシノモノノベ)という豪傑が現われ、大斧を振り廻して反乱軍を蹴散らし、とうとう朝日郎を斬り殺したので、官軍が勝利を得ることが出来た。

 この戦いで、息速別命から5代目の阿保君(アオノキミ)意保賀斯(イホカス)が官軍に味方して手柄をたてたらしく、戦後雄略天皇から戦功を賞され、健部君(タケルベノキミ)という姓を賜ったと『続日本書記』に載せられている。

 阿保一族が日本史の舞台に初めて登場した戦いであった。




昭和59年目次
41.町内で最も古いといわれる寺脇の宝厳寺(ほうごんじ) 昭和59年1月号
42.巨岩に刻まれた高尾鈴又の不動明王 昭和59年2月号
43.じもとではかんじょうしの霧生城址 昭和59年3月
44.別府の十王石仏 昭和59年4月号
45.葛原氏・滝野氏の祖先 昭和59年5月号
46.古代のルートをしめす老川如来への道分地蔵 昭和59年6月号
47.とんがり嶽の地蔵さま 昭和59年7月号
48.大昔の古戦場 伊賀の青墓 昭和59年8月号
49.敬叟(けいそう)禅師産塚をたずねて 昭和59年9月号
50.火伏、鎮火の神 秋葉さんと愛宕さん 昭和59年10月号
51.腰山の阿弥陀さん 昭和59年11月号
52.神風の昔がしのばれる柏尾の懸仏(かけぼとけ) 昭和59年12月

目次昭和60年

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