絶版になった旧青山町の「あおやま風土記」を紹介します

村の生活を守る境目塚

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村の生活を守る境目塚

昭和58年6月号

 霧生から高尾へ抜ける宝塚の峠のすぐ横の林の中に直径3m、高さ2m位の古塚があります。この古塚は宝塚一番塚と言われています。この塚へ1000m、三國岳と言われる頂上には六番塚があり、頂上には
            表

是б西宝塚迄之間高尾(※注1)
霧生領分二不拘印之
左右古形之通 種生村立合

            裏

文政3年庚辰年 相改ル

 と刻まれた石碑が建っています。

 こうした土塚は一番塚を起点として二十九番塚(古田伊勢境)まで延長7,770mの間の霧生と高尾の境界を定めています。

 際目塚の築かれた文政3年(1820年)の頃の山々は現在と違って、炭を焼く雑木林、牛を飼う採草地、屋根をふく萱場など農用林として利用され、朝早くから草を刈り、牛や馬の背に積んで帰るという牧歌的なものでしたが、山々は村や部落の入会林であったため、境目争いが絶えず、血で血を洗う紛争が起り、藤堂藩では村の代表を集めて境界を定め紛争解決に努めました。

頂上の六番塚を望む

 この「宝塚一番塚」から始まる古塚の所在は「高尾村、霧生村山論際目塚定書」として残されています。

 この古文書には「是б尾通り水分峯江辰己二中ル長三ア五間目二四番塚アリ・・・」等克明に記録されています。

 この古文書をたよりに塚を探ってみるとピタリと符号してゆきます。

            頂上の六番塚を望む
 山菜採りを兼ねて、村の生活を守った「塚めぐり」も一興ではないでしょうか。

※注1「б」の文字は、本では数字の5と6が合わさったような文字で表現されていましたが、PCの中に同じ表現が出来る文字がありませんでしたので「б」で表しました。




昭和58年目次
29.幻の重要文化財羽根亀井家大邸宅 昭和58年1月号
30.青山町の北に眠る城氏朝妻堡 昭和58年2月号
31.伊勢の堺、伊賀齋王堺屋の祭祀場跡 昭和58年3月号
32.霊験あらたか小河内の金毘羅さん 昭和58年4月号
33.歴史散策の小道 阿保頓宮跡から七つ塚へ 昭和58年5月号
34.村の生活を守る境目塚 昭和58年6月号
35.堀抜水路と儀八翁 昭和58年7月号
36.滝の熊野三所神社 昭和58年8月号
37.阿保から老川如来さん参りの近道 八鉢道の今昔 昭和58年9月号
38.兼好ゆかりの薬師寺跡 昭和58年10月号
39.諸木の子安地蔵 昭和58年11月号
40.寿福の神さま下川原の弁天さん 昭和58年12月号

目次昭和59年

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