江戸時代の上野街道 かんじょう坂
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江戸時代の上野街道 かんじょう坂
昭和60年4月号
近鉄青山駅の駅裏から、日生学園の通じる坂道のことを、阿保の古老たちは「かんじょうざか(勘定坂)」と呼ぶ。
現在この道は、日生学園に行き交う人たちだけが利用している間道(かんどう)になってしまったが、阿保の町が初瀬街道の宿場として、大にぎわいだった当事は、阿保=上野間の主要道路であった。
その名の由来「かんじょう」とは、阿保の町で買い物をした比自岐(ひじき)や神戸(かんべ)方面のお客や、物売りにきた上野の人たちが、お金の勘定をしながら峠を越したことから、そう名付けられたといわれる。
阿保から上野への道路といえば、阿保西部の大縄橋から、比土を経る道より考えられない現在だが、通称「上野街道」の名で呼ばれるこちらの道路が幹線となったのは、大正年間に上野から名張まで伊賀鉄道(今の近鉄伊賀線)が開通し、その比土駅(当事は阿保駅)までの連絡道として拡巾されてからのことで、上野街道としては、勘定坂の方が兄貴分である。
江戸時代阿保の町は、上野、名張とともに、伊賀藤堂藩から商業を営むことを許されていたので、宿場プラス商業の町として、人の出入りが激しく、特に勘定坂を通る人たちの多くは、銭(ぜに)勘定の忙しい商人であった昔がしのばれる。
阿保東部の川向いには、初瀬街道から分岐して勘定坂へ行く道を示す道標が残っているが、『右いせ道、左うゑの道』と刻まれたこの石柱に気づく人は殆どないだろうし、ここから勘定坂へ抜ける人もなくなった。
昭和60年目次
53.五智如来と勝地の里ー北山辺りー 昭和60年1月号
54.南朝の要害・・・高尾の城跡 昭和60年2月号
55.椎の古木 昭和60年3月号
56.江戸時代の上野街道 かんじょう坂 昭和60年4月号
57.岡田の括り地蔵への参詣 世直し捕縛(しばられ)地蔵尊 昭和60年5月号
58.いまも生きる石の燈籠 平穏と安全を希求して 昭和60年6月号
59.県指定天然記念物クマガイソウ群落 昭和60年7月号
60.青山の語源になった阿保山の昔話 昭和60年8月号
61.生活に密着した青山の竹林 昭和60年9月号
62.古刹 上津山宝珠院 昭和60年10月号
63.福丸こっこ 昭和60年11月号
64.阿保地名考 昭和60年12月号
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